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連合軍上陸を阻止せよ イタリア半島で勝利をおさめた我が部隊は、1944年6月6日、ノルマンディーに到着。すでにコタンタン半島には米軍の空挺歩兵が降り立っており、セーヌ湾には戦艦を中心とする強力な艦船に護衛された連合軍の上陸部隊が展開していた。上陸阻止のための連携作戦をより密接に行うため、友軍を指揮下におくとともに、例によって対空部隊から配備を開始。 しかし、開戦とともに連合軍の猛烈な艦砲射撃と航空攻撃が友軍に襲いかかる。我が部隊の生産拠点から沿岸までは遠く、戦闘に参加できないまま、友軍の消耗を眺めているだけの時間が過ぎる。それでも友軍の海岸砲は果敢に敵艦船を攻撃し、(全体的に見れば些細な戦果だが)ある程度の抵抗を試みる。我が部隊は東と西からセーヌ湾岸を目指し、東からの部隊を主力と決定。地上戦力の8割方を投入した。主力部隊がファレーズに到着した頃には、すでに1SSPzcpは初期生産首都からの撤退を余儀なくされており、後方首都近辺で対空防衛戦を展開していた。これに我が軍も加わり、ようやく複数部隊での運用が可能になったわが戦闘機隊も参加。徐々に前線を押しはじめた。ファレーズ以北には我が軍の補給拠点が存在しないため、英軍が占領している1SSPzcpの初期生産首都近辺の拠点奪還を当面の作戦目標に設定。ほとんど無補給に近い状態での進撃のため後半かなり息切れはしたものの、これに成功した。 一方、西からまわった部隊は、やはり内陸に首都を移した84thcpを支援しながら、防衛戦を展開した。しかし、こちらは補給拠点の確保が主力部隊以上に困難で、サンマロ湾西岸の米軍占領都市のいくつかを奪還したものの、前線からはほど遠く、米軍上陸部隊との地上決戦は不可能に近い。84thcpとの共同作戦で防衛に徹するが、かの友軍の戦力も薄く、効果的な反撃ができず、前線維持が精いっぱいの状況。そうしてる間にも米軍地上部隊は続々と押し寄せてくる。こうした戦況を打破するため、当初目論んでいた主力部隊による英軍拠点占領を断念。空爆による首都破壊作戦を準備し、航空部隊を編成。6月25日に空爆部隊が飛び立ち、2日にわたる爆撃の末、英軍の駆逐に成功した。 これに前後して、生産ラインにティーガーIIが上がったため、パンターGを随時進化させ、84thcp首都に迫る米地上部隊の挟撃作戦に備えている。
ノルマンディーその2 英軍を駆逐し、やや余裕の見え始めた戦況だったが、7月にはいって米軍の戦闘機生産ラインにマスタングDが登場。その性能はFw190D9さえ凌駕し、パイロットの熟練度が最低の状態でも我が方のエース部隊とほぼ互角に戦う。またライトニング戦闘爆撃機もL型が配備されはじめ、地上部隊の脅威となっている。米軍は洋上拠点の他、コタンタン半島にも勢力を拡大しつつあり、いぜんその経済力は衰えていない。こうした状況の中、完全な制空権奪取はもはや不可能で、戦闘が長引けば、それだけこちらの部隊の損害が多くなると判断(マスタングD登場後一週間ほどでスツーカ2部隊、フォッケウルフとパンターの各1部隊が全滅させられた)。進化させたティーガーIIの経験値を上げたかったが、早期の戦闘終了を決断。セーヌ湾上の米軍首都攻略のために、部隊を建て直した。幸い米軍はコタンタン半島制圧を当面の目標においている様子。揚陸艦の上陸地点もそちらに移動し、海上戦力もシェルブール周辺に対する艦砲射撃を繰り返している。この隙に我が軍は首都爆撃部隊を編成し、7月8日これを破壊し、連合軍の上陸作戦を阻止した。 だが、局地戦では勝利を収めたものの、全体の戦局に大きな影響を及ぼすまでには到らず、我が軍は「マーケットガーデン作戦」阻止のため、アルンヘムへの移動を命じられた。
遠すぎた橋 ノルマンディーで連合軍上陸部隊を駆逐したのも束の間、我が軍はルール地方への侵攻を試みる連合軍降下部隊せん滅のため、1944年9月、アルンヘムへと向かった。渡河地点確保のために降り立った敵空挺部隊を各個撃破するため、ティーガーIIを主力とする第一集団をアルンヘムを窺う英軍1Paraに、さらにナイメーヘンの東に降下した米軍82Paraに対してはパンターGを主力とする機動力の高い第二集団を派遣。両拠点に対する作戦を同時に進行させた。この間、友軍は生産首都確保を最優先し、徹底した防衛戦を展開した。地上軍は野砲で、また航空機はこの戦いから生産可能になったMe163Bで叩き続け、首都まじかまで迫られながらも果敢な抵抗を続けた。 我が部隊は開戦後3週間ほどが過ぎた頃、マップ北部の制圧を完了し、南進を開始。英軍主力部隊との戦端を開いた。残る米空挺部隊首都に迫る頃には、友軍も攻撃戦力として運用できるようになり、攻略期間ぎりぎりではあったが、なんとか「マーケットガーデン作戦」の阻止に成功した。 なお、作戦途中にMe262A1およびMe262A2が生産ラインにあがったため、戦闘機部隊は8部隊中6部隊を、また2部隊の戦闘爆撃機のうち1部隊を進化させた。
アントワープをめざして 次に我が部隊に下った命令は「ラインの守り作戦」。本国からの電文には「フランスはアメリカ軍にとって、巨大なワナとなろう。攻撃は、英軍を補給基地から遮断し、大陸から撤退させるために、ミューズ川を渡河後、アントワープをめざす予定である」とある。 ジークフリート線に迫る米第一軍と第三軍の前線突破に手間取り、開戦当初は防衛一方の戦況だったが、部隊の配備が整った一週間後あたりから反撃に転じることに成功。地上軍は大きく2軍に、また航空部隊は3分しながら、東(画面では上)への進撃を開始した。 入り組んだ地形により部隊の進撃速度は低いが、それでもマップ東半分の制空権はこちらにあり、敵の有効な航空攻撃が皆無のため、ティーガーIIの卓越した攻撃力で次々に米軍を撃破し続ける。シャーマン戦車は無論のこと、パンターGではかなりの反撃をくらうバズーカ装備の歩兵に対してさえ、ほぼ無敵の存在である。 こうして1944年も押し詰まった頃、米第三軍の後方首都を爆撃するとともに、前線に近い首都を占領。相当数の都市・空港をこちらの拠点とし、さらに明けて4日後、空挺部隊の拠点であるバストーニュを制圧した。さらに英軍の経済力を下げるため、爆撃機を英軍陣地内に派遣、都市を空爆するとともに工作部隊で自軍拠点へと再建。この作戦の結果、もともと経済力の乏しかった英軍は軍事費の枯渇にみまわれ、航空機の生産さえ覚束ない状態に陥りかけている。 一方、ミューズ河に迫る頃から、米第一軍の航空攻撃が激化。また、ルバン(?)付近の生産首都からは続々と地上軍が進撃してくる。こちらは依然5万近い軍事費を維持しながら、次々と部隊を生産。我が軍は、決戦に有利な拠点確保のための作戦を進めながら、消耗した航空機を補充、またフォッケウルフをTa152Hに改良し、野砲・高射砲の前線への移動を急がせ、まじかに迫った米軍との総力戦に備えている。すでに残す攻略期間は一ヶ月を切り、「ラインの守り作戦」の成否は数日の内に始まろう米第一軍との決戦にかかっている。
アルデンヌ、意味のない勝利 刻々と迫る攻略期限を前に、本来は対米戦に総力を結集したかったのだが、不本意ながらも部隊を二分。当初三軍構成で侵攻を続けていたが、全軍の3分の一程度の部隊を、英軍拠点攻略に向かわせた。なにしろ、このマップ、最終的に残る二つの連合軍拠点が離れすぎている。どちらかを片付けてから、もう一方をと考えていたのでは、とても総統命令を完遂することができないのだ。 バストーニュの西の都市群を制圧し、野砲の集結を完了させた時点で、いよいよ本格的な決戦を開始。米軍部隊はミューズ川をすでに渡河し、森の中の道を一列に数珠つなぎにこちらに向かっていた。これらを野砲と航空機で叩き、さらに戦車部隊を押し込むといういつもの進撃パターンにより、わが部隊は決戦開始から一週間ほど後、ついにミューズ川渡河に成功した。部隊の消耗も激しく、戦車部隊も弾切れが続出したが、この時点ですでにわが方が完全に制空権を握っていたため、敵の有効な航空攻撃もない。前面に立ったティーガーIIは弾薬がなくなった後も、その強力な装甲力により敵地上兵器の攻撃を受け付けず、よく前線維持の任を果たした。 米軍拠点を労せずしてすべてわが方のものにするため、確保したミューズ川東岸の首都はあえて占領せず、親衛隊をおくにとどめた。それから、さらに一週間。かなり強引な攻めではあったが、なんとか米軍後方首都の爆撃に成功。同時に、すでに確保ずみの首都を占領し、残るすべての米軍拠点をわが軍の制圧下においた。 一方、英軍に向かった部隊は、フンメルやマウルティアなどの間接兵器が活躍し、もともと英軍戦力がすでに弱体化していたこともあって、比較的スムーズに英軍首都につながる橋を確保。渡河地点確保後は、たいした抵抗も受けずに英軍の二つの首都の包囲に成功。時間的には、こちらの方が早かった。 こうして2月3日、わが軍はこのマップを完全に制圧。残る10日間を利用し、陸空とも激しく損耗している対米攻略部隊の完全なる補充に努めた。また、あまり役に立たなくなったJu87Rの2部隊を処分。新たにFw190GとMe262A2を各1部隊生産し、パイロットの錬成に努めた。 攻略期限の2月13日、英軍拠点を制圧し、わが部隊はこのマップに勝利した。しかし、この激戦は「何の意味もない勝利であった」と評され、部隊は突出した戦線からの撤退を余儀なくされた。
ブダペスト再占領に成功 アルデンヌから撤退したわが軍に、ブダペストで包囲されているヴィルデンブルフ救出の総統命令が下った。マップ北西部からの進撃となり、ヴィルデンブルフの部隊が包囲されているブダペストまではあまりにも遠い状況。それでも最善を尽くすべく、ドナウ川沿いに東に向かう第一部隊と、川を南に渡河する第二部隊とを編成。それぞれ前進を開始した。 第二部隊は、渡河後、3ウクライナFtの初期首都であるタタバニヤ(?)を南北から包囲するべく、さらに部隊を二分。第二部隊Bはタタバニアの西にある森をさらに南下し、モールの制圧に向かった。 一方、ハンガリー軍は、首都に迫る小数の3ウクライナFtの部隊と交戦。南部の空港に展開していた敵航空機を地上対空部隊で迎撃しながら、わが部隊の航空機到着を待つ。すでにジェット機が主力となっているわが空軍は、すみやかに南部への展開を終え、マップ南西部の制空権を確保。以後、3ウクライナの第二首都への攻勢に転じた。 この間、第一部隊は、ドナウの支流であるフロン川の渡河拠点を巡って、2ウクライナFtと激しい攻防を繰り広げる。が、2ウクライナFtのフロン川守備隊に対空部隊が少ななかったことが幸いし、航空攻撃とレオポルドおよび装甲列車による間接攻撃で、敵の間接攻撃部隊を撃破。なんとか渡河に成功し、以後バーツまでは電撃的に進撃した。 一方、第二部隊は南北からのタタバニア守備隊挟撃に成功、これを制圧した。しかし、時すでに遅く、ブダペストの友軍は圧倒的なソビエト軍の前に全滅。ブダペストの首都は、3ウクライナFtのものとなっていた。 以後、ブダペストを巡って、激しい攻防戦が始まることになるが、その間隙を縫って、ハンガリー軍と協同していた航空部隊が3ウクライナFtの南部の首都の爆撃に成功。続いて、グライダーで降下した親衛隊がこれの制圧に成功した。さらにMe262A1の2部隊がこの地方に展開し、東の2ウクライナFtの第二首都攻略にあたった。 ブダペストの攻防戦は、わが軍第一部隊と第二部隊の挟撃体制が整ってからは、攻勢一方となり、3月の中旬には3ウクライナFtが死守していたブダペストを奪回。これで対する相手は2ウクライナFtだけとなり、ようやく見通しも明るくなった。ブダペストで合流した第一、第二部隊は逐次制圧ずみのブダペスト周辺都市で補充。比較的損害の少ない部隊で2ウクライナFtの第一首都制圧に向かう。この時点で、すでに2ウクライナFtの移動先首都近辺の都市、空港はわが軍によって制圧ずみ。また首都の周囲もハンガリー軍の地上部隊が占拠している。第一首都の包囲が進み、敵は首都を移動するも、もはや部隊が生産できる状態ではない。わが軍は次のベルリン攻防に備え、着々と部隊を補充し、かつ都市占領と制圧ずみの都市の耐久度あげを、時間の許す限り行った。 こうして4月4日、ヴィルデンブルフの救出には失敗したものの、ブダペストを再占領せよという総統命令を見事に果たし、反攻に成功したのであった。
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