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激戦フレンチアフリカ マップをにらむこと数時間。とても、正攻法では勝利におぼつかないと判断し、英軍拠点の奇襲攻撃を決断。東のイギリス第8軍はイタリアに任せて、我が部隊はサルジニア島に航空部隊を結集。ようやくFw190Aが生産ラインに乗ったため、Bf109Gを全機進化させ、戦闘機4部隊、急降下爆撃機2部隊、Ju88A1で編隊を組み、洋上の英軍拠点爆撃を敢行した。 多大な損害は受けたものの、開戦1週間後の11月15日、英軍拠点を殱滅。連合軍戦力を大きくそぐことに成功した。しかし、この時点で、軍事費が底を尽き、思うように航空機の補充が進まず、予定していた米軍拠点爆撃の体制が整わないまま、ズルズルと過ぎていく毎日。アフリカ大陸での前線を西に押せば、米軍は防衛に転じ、奇襲攻撃はままならないだろうし、かといって前線を押さなければ補給拠点が少なく、大陸での地上軍の立ち往生は目に見えている。 イギリス第8軍は伊軍の前線を突破しつつあり、またハリケーンを主力とする航空機は無いに等しい制空権をいいことに、我がもの顔で飛び交っている。 いずれにせよ、軍事費のないのがつらい。このマップではFw190Aをはじめ、輸送機、爆撃機、ティーガーなど新兵器がぞくぞくと生産ラインに乗ってくる。せめて主力戦車だけでも進化させたいのだが………。
米軍拠点奇襲成功!! 11月29日、米軍拠点の奇襲空爆に成功。フレンチアフリカから米軍は消え去った。 英軍拠点殱滅の後、航空機の補充に全軍事費を投入。さらに全航空戦力を米軍拠点近辺の洋上に展開・待機させること、数日。この間、チュニスに展開している上陸部隊は、あえて前線を西に押さず、チュニス付近の制圧都市付近で待機。一方、米軍は陸軍・空軍ともビシーフランのス首都オラン攻略にほとんどの戦力を投入。弱体なビシーフランス軍も猛攻を受けながらよく健闘し、我が奇襲部隊の編成が整うまで米軍主力の引き付け役を見事果たした。 こうして、11月28日、洋上での編成を完了した航空部隊が米軍拠点に侵入。なんと、米軍首都および周囲ヘクスはがら空き。Ju88A1はなんなく空爆を開始し、まわりをFw190Aと地上攻撃用に同行したJu87Rで完全護衛。翌29日、首都の完全破壊に成功。米軍はこのマップから姿を消した。 我が軍の損害は、燃料切れとなったJu87R一部隊。残りの航空機も残存燃料が乏しく、墜落の危険性もあるが、旧英軍拠点に降下した歩兵が空港を徐々に占拠しているため、ほとんどの部隊が生還可能と楽観している。
ヴォロネジ包囲(ハリコフ) 現在1943年2月22日。すでに、我が軍はSW FtおよびNカフカスFtを撃滅。ヴォロネジの包囲も完了した。 我が軍は1942年12月18日に戦線に到着。すぐさま、ロストフの北にあるシャフチを前線と決め、ほぼ全軍の移動を開始。野砲と対空高射砲は列車および装甲列車に搭載、4号F2型戦車を主力とする地上部隊は自力で前線を目指した。あわせて、Fw190AおよびSu87Rの航空部隊が、シャフチに向けて飛び立った。 この間、ソ連軍の猛攻により、ハンガリーはまたたく間に占領され、またスターリングラードに駐屯する友軍もまた全滅。友軍はハリコフにまで撤退したが、ヴォロネジFtの侵攻速度はすさまじく、はやくもハリコフの北東あたりにまで前線を広げている。このため、我が軍首都への侵攻を防ぐ必要から、ドニエプル川およびドネツ川にかかる鉄橋と橋を爆撃して破壊した。 一方、シャフチ周辺のドネツ川を挟んだ前線の突破は、東岸に集結したSW Ftの強力な間接兵器により、当初思うように進展せず、カチューシャや野砲を爆撃に出た我が航空部隊も敵の対空高射砲により消耗する。一時は戦いは膠着しかけたが、しかし野砲の到着によりようやく前線を押すことに成功。2週間あまりの激戦の末、ついにわが主力はスターリングラードまで数ヘクスにまで迫ることに成功した。 この間ロストフ側からNカフカスFtに回り込まれることを防止するため派遣していたNカフカス方面部隊も、少ない戦力ながらも健闘し、NカフカスFtがSW Ftの支援にまわるのをよく防ぐとともに、徐々にではあるが確実に各個撃破し、Nカフカス首都に迫っていた。 一方、ヴォロネジFtはハリコフを包囲。ヴァイクスAGrはさらに西のポルタワへの撤退を余儀なくされていた。ここにおいて我が軍は新たに航空機4、地上部隊5からなる部隊を生産。ヴォロネジFtの南下に備えた。 スターリングラードに迫っていた我が軍主力は、ついに1943年1月10日、スターリングラードを空陸から猛攻し、占領。続いて、Nカフカスも制圧。残すはヴォロネジだけとなった。しかし、戦線の広がりすぎたヴォロネジFtはもはや我が軍の敵ではない。ドン川を東西に挟むように部隊を2分して、ヴォロネジに進撃。途中の空港、都市を占領しながら、2月の初めにはヴォロネジを東と南から包囲。なし崩し的に周辺都市・空港の制圧も完了し、2月22日現在、ヴォロネジFtの都市は首都ヴォロネジを残すだけになった。
いよいよサレルノ ティーガー戦車の開発が遅れたまま、ハリコフの攻略期間である43年4月4日を迎える。引き分けは兵の士気に関わるため、ヴォロネジの包囲網を狭めて敵戦力を全滅させ、戦闘を終結させた。 戦力を補充した我が軍は、7月5日ハリコフに戦力を集結し、クルスク戦に突入した。 6週間しかない攻略期間とすさまじい敵の包囲網。まともに突破を試みても、時間と戦力を消耗するだけだと判断。クールゲAGとの共同作戦で、ヴォロネジFtの2生産首都爆撃作戦を発動、8機のFw190と2機のHe117を順次配備した。我が軍はベルゴロド、クールゲAG空軍はリゴフと、それぞれ爆撃目標にむけて爆撃部隊が飛び立った。 その間、地上軍として対空部隊と間接攻撃部隊を配備、敵の航空機と野砲の殱滅を狙い、敵のフロトロンカ以南への侵攻を食い止める。 こうして7月9日、まずクールゲAG空軍がリゴフ上空に侵入。続いて翌10日我が軍がベルゴロド空爆を開始。7月11日、ヴォロネジFtを戦線から消滅させる。 次の目標はセンターFtの首都クルスク。クールゲAGはトーチカ群の厚い南を避け、西から地上部隊を回り込ませる。我が軍はフロトロンカから部隊を二分し、クルスクとヴォロネジを目指す。防衛線の消滅したクルスク南方からの我が軍の進撃とクルスク西方に終結を完了したクールゲAGとの挟撃により、7月21日、我が軍によるクルスク占領に成功。一気に都市・空港数が増え、マップ中央部にステップFt攻略の拠点が広がる。 こうなれば、後は南と西からヴォロネジを包囲するだけ。我が軍は7月26日、再びヴォロネジの包囲を完了した。 首都を囲みながらステップFtが生産する部隊を逐次攻撃し、我が軍はティーガー戦車のエントリーを待つ。が、出ない。包囲すること、一週間。8月に入って、ようやくエントリーされたのは、なんとパンターD。これにより、ドイツ戦車の恥ともいえるVK6501が生産ラインから外れた。しかたなく、4号戦車をすべてパンターDに進化させ、なお包囲戦を続行しつつ、実戦演習で部隊の経験値あげを図った。同時にエレファントもエントリーされたので、一部隊だけ生産してあったSTvGIII駆逐戦車をも進化させた。大勝利してシシリー防衛にあたる予定の我が軍だったが、部隊錬成のため攻略期間いっぱい演習を続け、ヨーロッパ戦線に戻ったのは9月3日。すでにイタリア半島には英米連合軍が上陸していた。
サレルノ途中経過 「敵の圧力により、早晩イタリアの降伏が予想される。イタリア軍寝返りの場合は、首都を支配下におくべし」と本国から指令を受け、戦線に到着したのが9月3日。イタリア降伏が時間の問題なら、いっそ早期に同盟を廃棄し、自軍拠点を拡大すべしとの判断から、首都近辺の伊軍都市・空港を占領。同時に伊軍に圧力をかけ、我が軍の盾とするべく前線へ移動させた。 この結果、伊軍戦力に邪魔され、進撃速度は鈍ったものの、数度の大規模な空中戦と我が軍の潜水艦隊の活躍により、米軍の戦力を大きくそぐことに成功した。 9月28日現在、地上軍はサレルノを越え、ポリカストロ湾の北に前線を張り、戦力の補充に努めている。一方、空軍はサレルノ周辺の空港に結集し、米軍拠点空襲に備えている。 すでにポリカストロ湾=タラント湾ライン以南は、英米両軍の完全制圧下にあり、今後いっそうの激戦が予想される。
サレルノからアンツィオへ 9月31日。空海からの強襲により、米軍洋上拠点生産首都の爆撃に成功。こちらの被害も甚大だったが、拠点上にある米軍主力もせん滅。これにより、わが軍主力は英軍相手への先頭に専念できることになり、進撃速度は大きく向上した。以後、順次前線を拡大し、10月10日にはシシリー島の英軍拠点を制圧。その3日後には米軍拠点の包囲を終了した。この間、この戦いから参加した駆逐艦の経験値上げを優先。敵洋上戦力壊滅後は艦砲射撃により、2艦中1艦を戦艦に、もう1艦を軽巡洋艦に進化させ、次のマップに備えた。 先に制圧した米軍洋上拠点の完全占領と駆逐艦の戦艦への進化の完了と共に、米軍部隊を全滅させ、マップを終了した。 イタリア半島から連合軍を駆逐したと思ったのも束の間、翌1944年1月、再び勢力を盛り返した連合軍は、まず英軍が上陸しナポリにまで進駐。また米軍は、アンツィオ洋上に一大拠点を築きながら半島に迫っている。 こうした状況の中、1月22日、わが軍はローマを拠点に部隊を展開し始めた。しかし、前線に隣接しての部隊展開のため、配置後すぐに英米軍の猛烈な航空攻撃が始まる。それを見越して対空戦車や高射砲などの対空部隊から配置するが、それでも支えるだけで精いっぱいの状況。二つの空港からFw190Aが迎撃に上がるが、いかんせん多勢に無勢。何波にもわたる波状攻撃により、いたずらに機数を減らして行く。こうした状況をなんとか打破しえたのは、戦艦1、軽巡1、潜水艦4からなる艦隊がアンツィオ沖に展開し終え、米軍揚陸艦をかたはしから撃沈し、米軍軍事費の消耗に成功した1月28日頃だった。 現在、ようやく制空権をなんとか確保し、カッシノを越えてくる英軍に対する地上反撃も開始でき、微速ながら前線を南に拡大しつつある。
さらばイタリア半島 地上軍はカッシノで英軍と対峙したまま戦線を拡大せず、間接攻撃で英軍の対空部隊撃滅に徹する。この間にアンツィオ沖から回り込んだ海軍と空軍で英軍拠点を包囲。ナポリを空爆後、輸送機により近辺の空港に降り立っていた親衛隊を侵入させ、ナポリを占領した。 ナポリ近辺に空港が多いのを幸いに、米軍洋上拠点攻撃部隊をここで編成。Fw190D9が生産ラインに上がったため、順次戦闘機をこれに改良。さらに損傷した戦艦を修理し、再び海空共同で米軍拠点に向う。 ナポリ攻略と並行して、小数の別動隊がムッソリーニの空軍が破壊したコルシカ島の米軍拠点を修復。空港にはFw190Fも配備し、米軍の拠点がサルジニア島に移った時に備える。 一方、ムッソリーニの地上軍はパルチザン掃討のため、ユーゴへの国境を越えた。しかし、山がちな地形に阻まれ、もともとの士気や火力の低さも災いし、いっこうに成果が上がらない。だが、ようやく拠点都市と空港を一つながら確保し、アンツィオ周辺での制空戦闘を終えた戦闘機がこれに加わった頃から、ようやく本格的なゲリラ掃討戦を展開することが可能になった。また、ナポリを落としたわが地上部隊も、ユーゴに向けた行軍を開始した。 さて、戦力の補充が整ったわが海空部隊は、洋上拠点への総攻撃を開始。戦艦や揚陸艦の間接攻撃で対空兵器を損耗させ、航空兵器を進撃させるという強引な攻撃により、さすがのFw190D9もかなりの損害を受けるが、なんとか爆撃機の首都侵入に成功。同時に、親衛隊も空港の一つを占拠。燃料計に赤灯がついた戦闘機の補給拠点を確保した。この時、コルシカ島から歩兵をサルジニア島に降ろし、拠点移動と同時に移動先拠点の占領を目論んだが、思いの外米軍拠点の移動が早く、これに失敗。歩兵1部隊がサルジニア島で孤立し、全滅させられた。しかし、首都移動のため、洋上拠点の攻略は順調に進み、米地上部隊も一掃。アンツィオから新たに占領部隊を2部隊空輸し、空港から占領開始。サルジニア島攻撃の足場を固める。 ここまでくれば勝ったも同然。パルチザンは、苦心はしたものの生産エリアを発見し、それを封鎖。あとは残存部隊叩きを航空機で続け、2月の終りには掃討を完了。また、サルジニア島は3月はじめに包囲を完了し、洋上拠点の完全制圧が完了した3月13日、首都を占領した。 こうしてイタリア半島北部を制圧し、南部への進撃に備えていたわが部隊だったが、本国から北仏での連合軍上陸を阻止せよとの司令を受け、一路ノルマンディーへの移動を開始した。
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