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これはPC-VANのゲーム&テラという掲示板に、1992年7月から8月にかけて書込んだプレイレポートを一部修正したものです。
『これまでのいきさつ』
その一 『もはやこれまでかも』 信長様が旧今川領攻略をお進めになっていた1561年秋のことです。朝倉様が北から、さらになんと友好関係にあった松永様が西から、尾張に攻め込んでまいりました。信長様は非常にご立腹され、さっそく松永様と直談判なされました。 「この、ションベンたれぇ! おめえ、義景とつるんでやがったな! 俺様はよぉ、おめぇとは友好関係にあると信じてたから、東を重点的に攻めてたんだぞ。フツー、いきなり攻め込んでくるかぁ。ヒキョーじゃねーかよ。俺様はなぁ、東海道攻略に命かけてたんだぞ! 今川の一族は根だやしにしてやったし、後を継いだのも弱小だったし、もう楽勝寸前だったんだぞ。それによぉ、今川の後を継いでんのは、こともあろうにあの恒興なんだぜ。もとはといやぁ、この俺様の奴隷じゃねーか。ほいほい今川なんざに尻尾ふりやがったってだけでもムシャクシャすんのに、あの野郎、どう立ちまわったんだか、今じゃお大名様だってんだから、もう許せねーじゃん。だからさ、もう、徹底的に叩いてやってたんだよ。野郎の家臣団をことごとく打ち破って俺様の手下にし、ようやく野郎一人だけにして、しかも撤退不能な城に篭城させ、そのうえあと一歩で落城するってとこまで追い込んだんだぜ。あの城さえ落とせば、一気に遠江と駿河を領有できるってのによぉ! みんな、おめーのせーだぞ。やい、久秀! 俺様と同盟しやがれ! そんで仲よく義景の鼻ったれをやっつけよーじゃん。おい! 聞いてんのかよ、久秀!」 松永様はただ「重臣と相談して、ご返事いたす」とのみ仰せられたご様子。 今川様の尾張侵攻をなんとか阻止した信長様ではありますが、この度の戦には勝てるあてもなく、もはや尾張をお棄てになるか、あるいはどなた様かに下るしか道はないように思われます。
その二 続『もはやこれまでかも』 松永様と朝倉様に迫られた信長様は、ついに美濃から兵をお引きになりました。遠江と駿河の国を治めることを先決とされ、いっときの間、美濃をお諦めになったのでございます。 それでも伊勢に兵を構えておられる松永様の侵攻を防ぐため、引いた兵を名古屋のお城に集められ、備えとされました。幸いなことに、信長様の撤退を知った朝倉様は、大垣城を落とすと兵を返し、松永様のご領地への攻めをおはじめになりました。松永様はあわてて尾張攻めの予定を取り止め、朝倉様との合戦に向かわれたのでございます。 ところがでございます。ようやく安堵され、池田様との最後の決戦への意気込みも新たにされていた信長様のお耳に、ことのほか悪い知らせが入ったのでございます。 東海道二国のお殿様に成り上がられた池田様が、北条様に臣従してしまったのでございます。 信長様は逆上され、長篠のお城に向かって大声をお出しになりました。 「そりゃーねーじゃんよぉ、恒興ぃ! おめーが、北条に下っちまったら、俺様のこれまでの苦労がパーじゃんかぁ! 俺様はなぁ、氏康なんざ、でぇっきれーだけど、しょーがねーから同盟まで結んでやってたんだぞ。どーしてくれんだよぉー!」 信長様はなくなく城の囲みをお解きになり、名古屋にお戻りになりました。東に向かうことがかなわなくなった信長様は、朝倉様と松永様の争いに乗じて美濃を取り戻し、さらに伊勢にも打って出る計画をお立てになりました。さっそく家康様に大垣城奪還を指図され、御自身は伊勢攻めに備えて兵をお集めになったのです。 大垣城はなんなく取り戻したものの、ここでまたもやたいへんなことがおきたのでございます。北条様が盟約を破り、尾張に攻め込んできたのでございます。今や北条様は関東、東北のほとんどを平らげ、巧みな外交策により西国諸国でも下るお家は数知れず。まさに天下人の勢いを誇っておられます。しかも北条様と呼応するように、武田様も美濃に攻め込んでこられ、さすがの信長様も進退窮まったご様子。ついに、一旦、北条様に下り、再起をはかることをご決断されました。御自ら北条様のもとに向かい、次のようにおおせになりました。 「まいった。降参。あんたにゃ、かなわねーよ。天下狙ってんだって? 俺様にも一枚かませろよ。な? 知行なんざ100万石もくれりゃいーからよ」 ところが、氏康様は「まいったぁ? ダメだよ、嘘ついたって。ボクちんにはちゃーんとわかってるもんね。オタクさぁ、降参するフリして、ボクちんのこと後ろからけ飛ばすつもりでしょ。そんなのヤだもんねーだ。とにかく、ぜったいぜーったいダメだかんね」と、信長様を追い返されたのでございます。 信長様が次に向かわれたのは、伊勢の松永様のお城でした。 「おい、久秀! しょーがねーから、おめーの家臣になってやることにしたぞ。どーだ、ありがたくって涙がでるだろ」 しかし、松永様のお言葉は非情でした。 「へだらこいてんじゃねーよ、このタコ! そのうちフクロにしてやっから、泣いて待ってろ!」 信長様のご命運は、もはや風前のともしびでございます。
その三 『こーなりゃ、意地でしょ』 降伏すら拒まれ、もはや北条様の蹂躙をお待ちになるだけ、というのが前回の信長様でした。いかんせん北条様のお力が強大になりすぎたのが、最大の敗因だったようでございます。信長様は「あー、もーだめ! やってらんねーよ。これはなかったことにすっかんなー」とおおせになり、いさぎよくリセットボタンを押されました。 しかし、さすがに信長様でございます。すぐさま気を取り直され、再度、天下統一への道を歩みはじめられたのでございます。 「俺様はなぁ、今回の失敗でよーくわかったぜ。こりゃーな、運だ。それから執念だ。そんでもって、欠かせないのがバックアップRAMへの毎ターンセーブだぜ」 この度の信長様は1555年中に尾張を統一、翌1556年の春には三河との国境にある鳴海のお城に全兵力をお集めになり、今川義元様を迎え撃つ体勢を整えられました。信長様の予想通り、その春、義元様は5倍以上の兵を率いられて尾張に参られました。 信長様は、鳴海のお城で控える重臣方に向かって、次のように申されました。 「よーし、桶狭間だぁー! いーか、おめーら、よーく聞け。今川のやつら、数は多いが、義元の隊はほんのわずかだ。ザコなんざ目もくれず、あの公家かぶれだけタコ殴りにしてやれ! でもな、この作戦はな、あのお御輿野郎が方円の陣を敷くかどうかにかかってんだよ。ここんとこ大事だからな、勝家、ちゃんとメモしとけよ! もしも他の陣形だったらとっとと退却すっかんな。わかったかぁ、長秀!」 最初の合戦では、義元様は賢明にも衡軛の陣をとられました。信長様は「退却だぁー」と叫ばれると、“りせっと・あんど・ろーど”とかいう面妖なる術をお使いになり、再び桶狭間に臨まれました。今度の義元様は信長様の目論見どおり、方円の陣で攻め込んで参られました。このため、義元様は攻めを一身にお受けになり、撤退されたのです。ところが、信長様のお言葉は「あーダメだ、ダメ。討ち取らなきゃダメなんだよぉ、勝家。そーすんとさ、やつらの士気がとことん下がるんだってば。もー一回やり直し!」でございました。 こうして“数度にわたる”1556年春の桶狭間の戦の結果、ようやく信長様は義元様の御首をお召しになり、今川家の軍勢を追い払うのに成功したのでございます。 その四 続『こーなりゃ、意地でしょ』 桶狭間の戦の後、今川家は氏豊様がお継ぎになりました。擁する兵の数はいまだに尾張の5倍あまり。義元様亡き後も今川様はまだまだ当面の最大の脅威のようでございました。しかし、信長様のお考えは違いました。 「でーじょーぶだよ、いくら頭数が揃ってたって。やつらの士気を見てみろ。もーボロボロじゃん。んなもん、こわかねーよ。俺様はなぁ、これがわかってたから義元ちゃんを昇天させてあげたのよん」 はたして信長様の言われるように、それまでの御館様を失ったためか否かは判然としかねますが、たしかに今川様の兵は浮き足だち、その士気は哀れにも8程度でございました。その上、わずかな兵のみ率いて出陣されている重臣方も多かったのでございます。このため、今川様との合戦はそのような少数の軍団を攻めれば勝ち戦となり、まさに連戦連勝でございました。 城を落とし、石高が増える度に、信長様は柴田様に優先して知行をお与えになりました。これには丹羽様などはずいぶん落胆されたご様子でしたが、信長様は次のように丹羽様を励まされたのでございます。 「長秀ぇ、なんだそのしんきくせー面ァ! 今はよぉ、兵力を集中するのがいっちゃん大事だってことぐれー、おつむのいいオメーにならわかんだろーがよ。もっと懐が暖かくなるまで辛抱しやがれ。そのかわりよぉ、オメーには手下をいっぱいくっつけてやっからよ、きっちり城攻めすんだぞ」 続く数年の間、信長様は今川様を追い、東海道を下っていかれました。戦えば勝つ戦でしたので、東征は苦もなく進められたのでございますが、信長様には焦りのご様子が窺えました。野戦では楽に勝てるとはいうものの城攻めに時間がかかり、しかも三河は石高が低い割には城が多く、手間の割には知行が増えなかったのでございます。信長様としては、国力が高いにも関わらずまださほど兵の多くない畿内への進出に乗りだし、天下を治める体制をいち早く固めたかったのでございましたが、さりとて今川様を追い詰めていく絶好の機会をみすみす逃すのは口惜しくもあり、どこで東征を切り上げるかにご腐心されていたのでございます。 しかし、この信長様のお悩みは、甲斐の武田信玄様により解決されたのでございます。 その五 続々『こーなりゃ、意地でしょ』 義元様亡き後の今川家の没落をご覧になった信玄様は、信長様が氏豊様を長篠で討ち破り、今川家の血脈が絶たれた1560年の冬、それを機に今川家との旧来の盟約を破棄、遠江は掛川城に自ら攻め入って参られたのでございます。 この頃の信長様は、ようやく三河を平らげ、遠江に覇を広げようとなさるところでございました。しかし、堅牢な長篠城がなかなか落ちず、遠江への進出が遅れていたのでございます。幸い、すでに高天神城攻めには取り掛かっており、むざむざ遠江一国を武田様に取られるようなことにはならずにすみそうでございましたが、なにしろ掛川は街道の抑えとなる戦略的に重要な土地でございます。 信長様は、胸中にたぎる武田様へのお怒りにより鬼よりも赤くなったお顔で申されました。「ちくそー! 掛川さえ取りゃー、遠江もこっちのもんだったのによぉ。悔しいぞぉ、勝家ぇっ! こーなったら、戦だぁ! 信玄のハゲ坊主に一泡ふかせてやるぞぉー、と思ったけど、どー考えても勝ち目がねーから、同盟すんぞっ! そんでもって、京をめざそーじゃねーか、な、長秀」 武田様は関東・甲信越に数国を領する大大名。いまはまだ北条様、上杉様との勢力争いを続けておられますが、ゆくゆくは東の覇者になろうかという勢いでございました。このような武田様といまの時点で対するは得策でないと、信長様は賢明なご判断をされたのでございます。 信玄様の遠江侵攻が避けられないことがわかった信長様は、くだんの“りせっと&ろーど”術で季節を一つ遡られました。この術を使うと気分のすぐれなくなる家臣方も多く、佐久間様なども蔭ではお腰のあたりをずいぶんと気にされているようでございました。 「そろそろ隠居かぁ、信盛ぃ? いーか、こーゆー場合はだなぁ、武田のじじいよりも俺様の順番のほうが早くないとダメなんだよ。野郎が兵を動かしてからだと、同盟が成功しにくいんだよ。どーゆー訳だか知んねーけど、隣接してる城に大量の兵をおいた国とはめったにドーメーできねーんだ。リセット技はなぁ、この俺様がいちばん面倒くせーんだからな!」 同盟交渉は信玄様に何度も断られたものの、信長様のご執念により“数度目の”1560年冬に成功。それまでの外交関係は通常だったものの見事、武田様と盟約を交わすことができたのでございます。 信長様は、念のため長篠城と高天神城にそれぞれ森様と池田様を守りにおくと、一路、尾張に引き返されました。いよいよ畿内攻略の開始でございます。 その六 続々々『こーなりゃ、意地でしょ』 東海道から引き上げてきた信長様は、伊勢と近江の攻略を開始されました。攻略は順調に進み、2年後の1560年夏には、伊勢、南近江、大和を平定、200万石を超えるほどの勢いとなられました。この頃になると、畿内を中心とする各大名様もそれぞれ力をおつけになり、特に越前を中心に日本海側に勢いを伸ばす朝倉義景様が、当面の最大の脅威となってまいりました。信長様も連戦のさなかにも、新たに得た知行をご自身の知行はそこそこにしながら戦上手な重臣や武将を中心にどんどんお与えになり、着々と強兵策を進められていたのでございます。 こうして摂津と北近江までを抑え、石高も300万石を超えた1563年の冬、ついに朝倉様との決戦を開始されました。 この時の朝倉様は、石高250万あまり。国力の上では信長様が勝っておりましたが、朝倉様のお城はどれも堅牢強固であり、手ごわい相手でございました。しかし、信長様の目は、その先にいらっしゃる陶様に注がれていたのでございました。山陽・山陰を中心に九州、四国にまで勢力を広げる陶500万石は次第に東に覇を伸ばしつつあり、陶様に対抗するためには国力をいち早くあげる必要があったのでございます。 朝倉様との決戦は、敵方の重臣・武将などの寝返りもあり、比較的順調に進みました。先の信玄様とのご盟約により、東に憂いがなかったのも幸いでございました。東国は、たしかに武田様がご優勢とはいえ、まだまだ混乱しており、信玄様も盟約を打ち棄てて信長様に対抗するだけの余裕もなかったのでございます。 こうして、信長様は1566年春には大膳大夫の官位を朝廷より授かり、その年の冬には西は岡山城あたりまで義景様を追い詰め、知行も500万石を超える勢いとなったのでございます。 しかし、この時、信長様が恐れていた事がいよいよ現実のものとなりました。いまや九州も四国も完全掌握し、640万石・700近い兵力を有する陶様が、ついに攻め込んで参ったのでございます。 これは、信長様の最大の危機でございました。 その七 続々続々『こーなりゃ、意地でしょ』 総兵数では信長様も五万近くを有しておられましたが、いかんせん朝倉様との連戦のため、兵がまとまってはおりませんでした。そこを陶様は倍する兵をしかも固めて配備して攻めて参られたのです。しかも陶様は義景様をいとも簡単に追い払い岡山城を手に入れると、そこと讃岐の多度津城の二箇所から高松城を、さらに阿波は勝端城から堺城を、同時に侵攻して参られました。信長様は、何度も同盟交渉を陶様とされましたが、陶様のご返事は冷たいものばかりでございました。信長様の脳裏を、前世での北条様への屈辱がまざまざとよぎったのでございます。 「こりゃ、やべーぜ。またもや、もはやこれまでかのパターンじゃねーか。うーん、どーしよ、どーしよ。兵をまとめるには後半年はかかるし、しかも朝倉の残党狩りも進んでっから、そっちの兵を退くわけにはいかねーし。そーだ、義景を臣従させちまおう」 しかし、さすがと言うべきでしょうか、義景様はがんとして首を縦にお振りにならなかったのでございます。同盟交渉すらはかばかしく進まなかったのでございます。 「いかん。ついにここで終りかぁ、くそったれ! 義景との決着さえつけられりゃ、知行はありあまってんだから、徴兵もできるし、軍団も固められるってのによぉ。どーにかなんねーもんかなぁ」 目前に迫る陶様の大軍を高松城の天守閣からご覧になりながら、信長様はお知恵を絞り抜かれました。撤退は敗北の始まり以外の何者でもなく、ここまで来て退くのはあまりにも口惜しかったのでございます。 苦慮すること、数時間。いったんはあきらめかけ、「こんなゲーム、もう二度とやってやんねーぞ。オープニングはよかったけど、それだけじゃん。ちょっと難しすぎんじゃねーの」と妙なことを口走られた信長様でございました。 しかし、その夜も明けようとする頃、信長様はやや興奮されたご様子で、重臣方をお集めになりました。みごとこの難局を乗り切るための妙案を思い付かれたのでございます。 その八 新『こーなりゃ、意地でしょ』 信長様は、集まった重臣方を前に申されました。 「俺様はなぁ、一生懸命考えたぞ。悔しかったし、バカみてーに暑かったし、ぜんぜん眠れなかったから、布団の上で考えてたんだ。でなぁ、閃いたのが、俺様名付けるところの先制防衛策だぁ。なぁに聞いてみりゃフーンてなもんだが、よーするにだぁ、攻め込まれなきゃいーんだよ。陶のキツネ野郎は、岡山城と多度津城から高松城を、勝端城から堺城を狙ってるよな。どっちも攻め込まれりゃ、エネルギー充填120%負けだ。そこでだ、逆にこっちから攻め込んでって、奴の出鼻をくじいちまおうって寸法さ。高松城から岡山城と多度津城に、堺城から勝端城に兵を送ってやんだよ。奴より先に攻め込めれば、奴ぁてめーの番になってもこっちにゃ攻め込めねーんだ。しかもだぁ、こっちから攻め込む兵の数なんざ、100人でもお釣りがくるぐれーなんだよ、これが。なんせな、すぐ撤退しちまうんだからよ。いーかぁ、よっく覚えとけよ。モタモタしてねーで、ソッコーくれて逃げてくんだぞ。こーすりゃ義景のジジイ締めるだけのために兵をまとめられるし、それが片付きゃ体制整えてキツネ顔ともなんとか渡り合えるよーになるじゃーねーか」 信長様の“りせっと&ろーど”術の駆使と、この先制防衛の策が功を奏し、朝倉様への攻めは滞りなく進捗し、ついに1567年の春には朝倉様を滅亡させることに成功。いよいよ陶様討伐の号令をおかけになりました。 まず、その年の秋、播磨は上月城に迂回行動をとっていた陶晴賢様の退路を絶ち、これを孤立させることに成功。晴賢様は篭城後、御腹をお召しになり、家督は讃岐にいた長房様に継がれました。四国上陸には水軍力が欠かせなかったため、信長様は集中的に水軍船の建造をお命じになり、冬には四国への上陸に成功。翌1568年は四国が主戦場となり、信長様の快進撃が続きました。信長様はここでも挟撃作戦をとり、長房様を孤立させ、ついに陶家を滅ぼされたのでございます。 これによりその家督は、陶家に臣従し、東北地方を任されていた葛西様に移ることになりました。この時点でもまだ葛西様の総石高は600万あまり、まだまだ信長様と肩を並べる勢いのようでございましたが、しかしそれはうわべばかりのものだったのでございます。葛西様が信長様に対するには武田450万石の楯を突破しなければなりませんでした。そればかりか、陶様の中国・四国においての総力戦の結果、なんと西南日本にはもはや一兵も残っていなかったのでございます。つまり、残る西国と九州はただ刈り取られるのを待つばかりの稲穂であり、葛西様の実際の国力は東北地方によるだけだったのでございました。 ここにおいて信長様は、勝利を確信なさりました。 その九 最後の『こーなりゃ、意地でしょ』 1568年の冬、主な大名の勢力は次の通りでした。 信長様 702万石 61将688百兵このように葛西様は石高は多いものの兵数は少なく、もはや敵ではありませんでした。信長様の天下統一を遅らせるのは、長年同盟関係を築いてきた武田様だけだったのでございます。 続く1569年、信長様はまず武田様に圧迫されながらも細々とお家を守っていた斉藤様を臣従させ、西国平定に城攻め部隊1万をおくと、残る6万近くにものぼる兵を連れて東へと向かわれました。そしてこの秋、信玄様に臣従するよう申し渡されたのでございます。 「信玄よぉ。どーすんだよぉ。俺様のふんどしでも洗うってんなら、許してやってもいーんだけどよぉ。あぁ? 同盟ぇ? 声がちっちゃくって聞こえねーんだよ、ッダラぁ! 今川の残党の寝首かいたのは、どこのどいつだったっけなぁ。それによぉ、前に俺様が同盟をもちかけた時にゃ、ずいぶん手間かけさせてもらったよなぁ。あぁ? 忘れちまったのかよぉ。もーろくしちまったんじゃねーのか? あーそーかい、そーかい。んじゃな、いーんだな」 臣従を拒否された信長様は、すぐさま武田様との合戦を開始、怒涛のように甲信越から関東へと雪崩込んでいったのでございます。1年半に渡る信長様の徹底した猛攻により信玄様もお亡くなりになり、1571年の春、ついに勝頼様は信長様のもとにお下りになりました。 これで、残すは北関東と東北のみ。立ち向かわれるは葛西様でしたが、誰の目にも葛西様の劣勢は明らかでございました。鬼神のごとき進軍を続ける信長様をもはやどなたもお止めになることはできませんでした。ついに葛西様を八戸城に追い詰めた時には、信長様の総石高は1598万石、総兵力は18軍団81将16万兵あまりにもなっていたのでございます。最後まで果敢に抵抗をお続けになった葛西様も、1574年夏、ご切腹。ここにおいて、ついに信長様の天下統一の偉業が成し遂げられたのでございます。
(92/7/27〜92/8/28) |
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